作詞のネタ帳

日常や社会の出来事に対して自分の心に引っかかったことを元に作詞していますが、この心の動きを公開し、また作詞のアイデアとして使う目的で始めました。書いてる歌詞の意味がバレルかも(笑)

マネー

  どうもお金にはルールがあるみたい。

  先日、たまたまテレビを点けたら関西の番組が放送されていた(名古屋は割と関西ローカルの番組がやってます、新喜劇も笑)。内容はお金にまつわる自分ルールを一般の人にインタビューしてるものだった。長財布やら、お札の向きを揃えるなど僕でも聞いたことがあるものから、冷蔵庫に入れる、はたまたヘビ皮の財布でしかもお頭付きというとんでもないものまで紹介されていた。

  自分も少しは、いや余りにも中途半端にお札揃えたりはするが、皆様方ものすごくお金に敬意というか気を使ってるみたい。で、このお札の向きである。ネットで調べると財布のお札の向きは、人物画がある方を表にして上下逆さまにならないように入れるのが一般的ルールのようである。しかしこのことをネットで調べる前まで自分は、上下逆さまに人物画の頭を下にして入れてた。これが正しいと疑いもなく思ってた。なぜか。レジでお札のお釣りを右手に受け取ってそのまま財布に入れると、逆さまに収納されてしまうからである。レジの人がそうしてくれているのだから、そういうもんだと思ってた。だからお金がたまらなかったの?(いや自分の心の弱さのせいです)
  自分は昔から人とズレてて、一般の人と逆のことをしてしまう事が多い。反射的にそうしてしまうみたい。右向けと言われれば、反射的に左を向いてしまう人間である。そうだとしても、レジの人も上下逆さまになるような渡し方はしないはず。もう少し踏み込んで調べてみると、どうもお客が左手でお札を受け取る事前提でお札の向きを出してるようだ。ヘェ〜。右手で受け取らないの?右利きじゃないの?左で受け取るの?確かに左手で受け取れば逆さまにならず入る、僕が変?(そう言えば喫茶店のコーヒーカップの取っ手も、左側に向いてるんだよな…)

  しかしこんなにお釣りのお札が揃ってる国は多分日本だけだろう。世界のお金持ちがいる国を少なからず見てるが、お札が綺麗だったことはないし、揃ってたことはない。日本は本当お金に意識がある国だ。僕の知ってる店では、お釣りはピン札しか出さない。こういう美学は、お金を大切にしてることの表れだし、それだけお金を意識してるということ。無駄遣い防止にもなるだろう。日本では金持ちほどこの傾向があるように思う。自己啓発本が好きな国だからかな?、トイレを掃除するとか笑

  街が綺麗な国は間違いなく平和である。悪いことではないなぁ、綺麗であることは。

By The Way

僕は何かと抜かれることが多い。抜くなんてことは、気分が興奮してるとき以外ないんじゃないか。昔からのんびり屋とよく言われてきた。競争は好きじゃないし、勝ち負けの世界にあまり心を動かされない、意味も感じない。その人にしかできないことに惹きつけられる。

 

しかし…抜かれると何かムカつくw  先日抜かれて本当ムカついたことがあった。

 

僕は趣味で登山をする。ここでも抜くより抜かれる方が多い。特に景色を楽しむためゆっくりしてるわけではなく、周りと時間の流れ方が違うので抜かれるのである、いや単純に遅いだけなんだけど。先行く人にはニッコリと挨拶しつつ、何を急いでいるんだろうと心の中でケチをつけてる。で、その登山の翌日の話である。登山の翌日は毎度毎度ひどい筋肉痛になっているため、傍から見たらペンギン歩きの状態。そんなペタペタ歩きでバス停の並んでる列に向かっていた。少しずつ近づいていき、あと一歩で列の最後尾に着くというタイミングである、突然横からおっさんにまくられ抜かれた。

 

えっ…そこまでして人の前に入り込む?

 

バスの座席にはその抜いた人までが座れ、僕は立つ羽目となった。正にペンギン。自分がもたもた歩いてたから、イラっとして抜いたんだろうけど、ホント気分が悪かった。まぁこういう時は大体こんなもん。

 

普段から歩きだけでなく、車でも抜かされ、電車の乗車時にも抜かされ。究極はふらっと入った石の装飾品を売る店のおっさんから、突然人生相談が始まり、君は商売はやらん方がいいなと断言されるし。つまり競争には向いてないと(このおっさん、人生相談おじさんとして知る人ぞ知る存在で、人を見る能力が高いらしい、実際そんな感じがした)。

 

この世の中は基本早い者勝ちだ。そうであるが故、どうしても競争に晒される。競争に向いてないのであれば、競争のないところで、自分を追求するという生き方を模索した方が長い目で見れば幸せ。それを見つけて軌道に乗せるまでは大変だけどね。人に勝った負けたより、自分が納得できたかどうかの方が重要。なのに人との競争に悔しがる自分はまだまださもしいなぁと。ホントどうでもいい事だけに余計ね…

どんなときも

日本の歌の歌詞の年代毎の傾向を見てみると、見事なぐらい世相を反映しているように思う。戦後であれば、貧しいけど希望を持とうよって感じで、ブルースの世界観に近い。高度経済成長期のときは、男と女の駆け引き。バブルの頃はウハウハで、特に心に響くというよりはノリ、基本縦ノリ。バブル後は憂いが入るようになり、哀愁や郷愁のある歌、ここは横ノリ。ここ数年は中二病、そして自分に対して超ポジティブ、絶対大丈夫だから。
これらは飽くまで、僕の思う年代毎の傾向だが、その時代に出てきた寵児で見てみると、そんなに間違ってないと思う。昭和はネガティヴ寄り、平成はポジティブ寄りでちょっと行き過ぎておバカさんな面もあるのはご愛嬌。

 

僕はこう見えて体が硬い、固い?かなりのレベルである。なのでヨガのレッスンを受けてる。先生も生徒さんも綺麗な人多いし、体も柔らかくなるなら、不純な動機だけど一石二鳥笑  特に体の硬い人には、先生が優しく指導してくれるし…まぁこんな話はどうでもよくて。そこでの若いヨガの先生が、レッスンの冒頭でこんな話をしてくれた。

「今日このレッスンの直前まで、東京に行ってたんです。そこで通勤ラッシュに巻き込まれたんですよ。やっぱり東京は人が多いですね。あまりに人がいるんで自分がちっぽけに見えちゃって。なんか安心しました…」

えっ…安心?なんか侘しくなりましたじゃないの???

そうなんだよね、その出来事がいい事だったのか、悪い事だったのかはその人の感じ方次第だから。前々からポジティブな人だなぁとは感じてたけど、超ポジティブな人だなぁ改めて関心した。なんか今っぽい笑  ネガティヴな自分でもこういう人を見てると、素敵だなと思ってしまう。

正直、最近の歌のポジティブには何か胡散臭さを感じてしまう。ゲスい人のポジティブは特に。ゲスい人のゲスい歌なら共感できるけど笑 世の中いい事ばかりでないし、ポジティブでいなきゃみたいな使命感はどこか無理してる分返って不幸になるような気もするし。けどこういうふとした会話の人間味のある天然なポジティブ、いいもんですね。心が洗われます。

素顔のままで

先日、本屋であるタイトルの本に目が止まった。


「もし文豪たちがカップ焼そばの作り方を書いたら」


何だろうと手にとってページをめくると、日本の有名な文豪やエッセイスト達が、もしカップ焼そばの作り方について書くとしたら、こんな感じのことを書くんじゃないかというのをその人になりきってパロディー風にまとめた本だった。こういうものを文体模写と言うらしい。これをわかりやすく言うとモノマネ番組でよくある「もしAさんが〜をしたらこうなる」みたいなもの。少なからず文芸モノは好きなので、好きな作家、例えば太宰治夏目漱石などのページは、彼らの文体がわかってるだけに思わずにニヤっとしてしまう。星野源など最近の人もあり、彼なんかは話の最初に「…は嫌いである」など否定や自分ができないことから入ることが多いので、よく特徴を押さえてるなぁと感心した。
で、こういうジャンルのもので思うのは、知ってる人にはバカ受けするほど面白いものであるけど、知らない人にとっては、何が面白いのか全くわからないというものであるということだ。決して万人受けするものではないニッチな笑いだ。

これと同じような楽しみを、音楽を演奏している人で僕は見ている。そこには意識的な人と無意識的な人がいる。意識的な人とは完全なコピーものとして演奏してる人。無意識的な人とは、オリジナルを演奏しているのだが、ありありと影響を受けたミュージシャンがわかる人。意識的な人も無意識な人も、その敬愛するミュージシャン愛が滲み出ている。知ってるミュージシャンであれば歌い方、格好などで影響が簡単にわかるので、見てて何か微笑ましく、あまりに似かたが絶妙だとやるねって感じでクスッと笑ったりする。

しかし大きなお世話だけど、この無意識的な人は注意が必要だ。意識しないとオリジナリティーがいつまでも出ず、ずっと模写から抜け出せない。終いには先の本のように笑いになってしまう。この大好きな人の影響を無くす、いやほんの少しだけでも少なくする作業が最初は意外と難しいのである。自分の経験上でも何をどう作っても、大好きなミュージシャンぽくなってしまう。オリジナリティーを持つというのは簡単な作業ではない。でも辛くても離れなくてはならない。ホントにその人のことが好きだからこそ離れなくてはならない、大人の恋愛みたいに、違う?笑
バンドは適度に他のメンバーの個性が嫌でも混じるので、オリジナリティーが出やすいけど、個人は好きの幻影から抜け出すの大変だろうなぁ。
参考までに自分がやった脱却するための一つの方法は、客観的に自分と雰囲気の似てるミュージシャン、できればそんなにファンでない人の要素を取り入れることだ。大好きなミュージシャンは自分と正反対的なことが多い。だからこそ憧れるんだけど、そこが痛さの原因にもなる。だってあまりにも自分から遠い存在だから。だからこそ客観的に自分と似てる人で、評価されてる人を真似して一部取り入れてみると新しい道が見えてくる。敷居も低いだろうし、好きな人からの脱却の一助にもなる。

世の中のどんな偉大な芸術家も人の影響を受けてない人なんて一人もいない。誰かの影響を受けた人が、更に自分の個性をプラスして新しいものを作り、フォロワーができ、更にそのフォロワーがまた新しいものを作っていく、そういうことが昔から連綿と続いて今がある。最初は真似して勉強して、どこかでオリジナリティーをプラスする。その自分にしかないオリジナリティーを作ることがある意味使命であり、それがこの人っぽいというやつになる。
最近ロックなんかはクラッシックやジャズなどのように、ジャンルとして完成されてしまったのか勢いがない。でも終わったと思ってしまうと、そこで話が終わってしまうので、新しいオリジナリティーがまた新たな波を作ることを期待しつつ、自分にも期待して。

 

見つめていたい

最近僕の周りが有名人だらけ。
と言ってもそっくりさんですが笑
ここ数ヶ月で

藤井四段
沢尻エリカ
小保方さん
サカナクション
アリtoキリギリス 石井
貴乃花

渋いところで
寺山修司
坂本龍馬(写真)

がいる。
そんなにそっくりかと問いただされると、自信はないけど、その人が醸し出す雰囲気は間違いなく似てると思う。で、その雰囲気を決める重要なファクターは目かなと。藤井四段の表情がない中の小さくも鋭く冷静な眼光、沢尻エリカの目を見開いた時の威圧感、小保方さんの素朴な顔の中で目が真ん中に寄ってる感じなど。貴乃花に似てる人は実は女性で、あの力の抜け切った感じで目を見開く何かを悟ったかのような表情を一瞬する。
因みに寺山修司坂本龍馬は目が似てるだけで、目力みたいなものがない人間的に良い人笑

自分も少なからず似てる人を言われる。ミスチル、イノッチなど。お分りかと思うが、笑うと目がない人達である。このことからも人は目を見て、その人を判断してるように思う。自分も人を判断する時は無意識的にも意識的にも目で印象を判断してる。目力強い人と黒目の小さい人は何か苦手だ。笑顔見ても違和感を感じるかどうかは目で分かる。「目は口ほどに物を言う」という言葉もあるから真理なんだろう。余談だが、うちのバンドのメンバーの一人は嘘をつくと目が泳ぐのですぐ分かる笑

そう考えると人に惹かれるというのは、その人の目が好きかどうかなのかもしれない。好きな子の目を見ると吸い込まれそうになる、個人的に笑  瞳と瞳が合って、そのまま何かの力によって近づいていく、例えるならSF映画の宇宙船に小型機が誘導され格納されるシーンで、小型機のモニターに宇宙船の格納位置が表示され、そこの位置にスコープを合わせながら着陸するような。わかりづらいか笑
また目と言えば男に多い、目が合っただけであの子自分のことが好きなんじゃないかという勘違い。かわいい子見つけて、ちょっと遠くから見つめてると、視線が合っちゃうことは多々ある。向こうは警戒してるだけなのにね。目とは不思議。ものすごく動物的。

ここのところの僕の一番の悩みは、心の状態が目にどストレートに現れることだ。よく人からつまらない?と聞かれる。確かにつまらないんだけど、余計な気を遣わせてるのが嫌で。目についてはいろいろ思うところがある。子供の頃いつもニコニコしてたので、何がおかしいんだって先生に叩かれたこともあるし、ほんわか系だったので多少目力ないと舐められるなと考えたこともある。最近は他ごとを考えてる時、どうも無意識的につまらなさそうな顔をしてるようだ。表情は自分では見えない分気をつけないと。それで人から引かれるんじゃね。穏やかな顔の研究でもしますか。理想はタイの仏像のようにニッコリと微笑んで。

昼に長い列に並んでラーメンを食べた。しかも大盛り。
食べ終わった後、水を飲みながら下に目をやるとズボンに一点シミが付いてる。ラーメンの汁だ…あんなに注意して食べたのに。ちょっといいズボンだったからショック。

食べ方については、褒められることが何一つない。汁は飛ばす、箸の持ち方下手、箸から食べ物を落とす、食べながら喋る、クチャクチャ食べる、唾飛ばす、ヨダレ垂らす、お茶こぼす…キリがない。

「人は変えることはできないが、自分は変えられる」なんて言葉を何かの本で見た。別に食べ方についての言葉ではないが、いずれにしろ変わる努力をしなければ。そんなことからも汁を飛ばさないよう最近工夫を試みるようにしてきた。

ラーメンが到着したら先ず食べられる範囲でできるだけテーブルの奥の方にラーメンをセットする。
次に自分の体をピタリとテーブルにくっ付けてズボンをテーブルの下に完全に隠す。
そしていざ食べるときはセットしたラーメンの器に口を近づけ、ラーメンの中身をその距離のまま、なるべく器の内側を沿わせるように口の中に吸い込ませる。これでシャツに飛ぶリスクは激減する。
つまり相当前屈みになってラーメンを食べてる。側から見たらどんなふうに見えてるんだろう。そんな人見たことないからわからない。

汁が飛ぶ最大の要因は二つで、箸で麺などを持ち上げる時にそれが弾けたり落ちる時と、ズルっと口の中へ啜る時である。
この試みによりラーメンとの距離を最短にし、弾く、落とす、啜るの汁飛ばしリスクを低減させる。勿論カレーうどんにも有効である。ただし難点もある。麺との距離が近すぎるが故に、口の中が火傷する笑

話を戻す。じゃ何で今回汁が飛んだのだろう。隣のやつを一瞬疑ったが、人のせいにするのは良くないし、ちょっと心当たりがあった。実は今回完全な形でラーメンをセットできていなかったからだ。
今回食べたラーメン屋は屋台スタイルで、折りたたみができる長机で人と対面で食べるシチュエーションだった。なのでラーメンをできるだけ奥に遠ざけることが机の幅の関係上できず、更に自分の体も同様にピタリと机にくっ付けることができず、ズボンを机の下に隠すことができなかった。唯一できたのがラーメンと口との距離を最短にする事だけだったが、何せ大盛りを頼んだので具沢山である笑 途中食い切れない状態になり、集中力も切れたんだろう。器と口との距離は空いた。その少しの油断から汁が飛んだんだろうと推測する。

人は隙を見せると付け込まれる。特に勢い乗っている(勢いよく啜ってる)ときは。気を付けましょう笑

 

風は吹いている

「AKB総選挙で指原3連覇、まさかの結婚報告」

先日名古屋栄のHMVに行った。店のレイアウトが変わってる。いつもの場所に洋楽コーナーがなかったので、どこかなと探し始めて唖然とした。洋楽コーナーが縮小されてる!!!
その分JPOPのコーナーとファンイベントスペースが広めにとられてる。
「確かに最近洋楽勢いないしなぁ。洋楽だろうと邦楽だろうと昔ほどの差もないし、JPOPのレベルもあがってるのでわざわざ洋楽聴く必要もないのかなぁ。前インド行った時もインド人は若い子でもインドの音楽しか聴かないと言ったもんなぁ。毎日カレーしか食べないとも言ってたし笑…」

そしてその数日後、
「おっSpotify今なら3ヶ月100円でプレミアムが利用できる。入りたかったからちょうどいいや。スマホに入れよう…
げっ何これすごいじゃん。こんなのだったらCD買わなくてもいいじゃん…」
知ってたのに今更驚いた。まさに百聞一見に如かずだった。


これが僕の最近の印象に残った出来事である。AKB、HMV、音楽定額制がリンクしてることを嫌が応にも気付かされた。
そういう時代であることは、頭では理解して分かってるつもりでいたが、実体験すると案外驚くもんである笑

今回身を以て思ったのは、音楽を買うという人が極端に減ってるということ。CDだろうと配信だろうと。HMVがCDに特典つけてモノを売るという手法を取ってるアイドルを押すのは、経営戦略として当然。いくら外資のCD屋だろうと生き残る為には売れるモノを優先的に売る。

しかし音楽定額制。音楽購入する気完全になくなりました。だって新譜も普通に聴けるんだもん。オマケにプレイリストというDJライクなお勧めまである。アルバムの存在意義すら危ぶまれるんじゃないかと。

このように定額制は聴く側にはいいことまるけだが、アーティスト側にとっては死活問題のように思える。テイラースウィフトみたいな影響力の強い人が、定額制に異を唱えるということもあったが、時代の流れに抗うんじゃなくて、アーティスト側も変わっていかなければならないんだろう。今は何せスマホ中心の時代だから、そのプラットホームに合わせたやり方をするか、それとは全く関係のない部分に価値観を持たせるか。

そう考えると、今後音楽というのは本来あるべき姿に戻るような気がする。音楽を売るんじゃなく、お客さんの前で演奏してお金を稼ぐもしくはパトロンについてもらう。アーティストと聴く側の距離が近くなり、アーティスト側もやり方によっては売れ線で妥協しなくてもよくなる。よく考えてみればこっちの方が正常であり、レコードやCDが売れてた時代が特殊だったのかもしれない。

僕の大好きな映画監督であるデビッドリンチが映画監督を引退するというニュースがあった。今後は有料チャンネルのテレビドラマに活動の場を移すようだ。理由は興行がうまくいく作品を求められるからで、素晴らしい映画の多くが興行がいいわけでなく、興行がうまくいってるような映画は自分はやりたくないと。リンチ監督のようなカルトの要素を持ってる人なら、この選択は当然だろう。興行者が望む作品より、自分が望み支援者も望む作品を作れる環境の方がいいに決まってるから。

このように映画だけでなく、音楽・テレビ・芸術・本など規制などの影響で無難で予定調和だったり、緩いものが多い。過去規制があるが故にそれに反発して新しいものが出てきた側面はあるが、今は規制にプラスして売り上げというものが至上とされる以上、刺激的な新しいものが出てくる可能性は低い。でもメジャーなプラットホームを選ばなくても活動していける道が開ければ、面白いものが出てくる可能性がある。しかもグローバルレベルで。

今の音楽界への変化はアーティストにとって、一見不利に見えるけど、選択肢が増えたのも事実。エンターテイメントの側面でみれば、興行というものは必要だし、今後も存続していくだろう。そして芸術という面での音楽で見れば妥協せずに創作ができるというのはアーティストにとっては好ましいこと。

なんか予期せず語っちゃいましたが、今の変化はアーティスト側も聴く側も選択肢が増えてるということ。まだ自分のバンドはその土俵の上にも上がってない立場だけど、妥協せずに自分らの得意としているカードを武器に創作が続けていけるよう邁進したいと思った次第です。変化に気づいて、戸惑うのでなく一歩を踏み出す勇気は必要ですね。