嫌われる勇気はお嫌い?
ベストセラー本であるアドラー心理学について書かれた「嫌われる勇気」。これをもとに、刑事ドラマとして脚色されたドラマが最近やってるらしい。一回も見たことないが。ちなみに香里奈は大好きです 照
で、そのドラマがアドラー心理学会から講義じゃなくて抗議を受けてるというニュースを読んだ。異なる見解を広めているとのこと。
人間関係で色々と考えてたときに、本屋で大量に山積みされた「嫌われる勇気」という題名の本。少し立ち読みして、衝撃を受け、買いたい衝動に駆られてご購入という本屋の思うツボで読んだ人も多かったろう。煽りもあるよね笑 読んでみてそれなりにメモったりして、感銘を受けた、その時は。すぐ忘れられちゃうんだけど。
「嫌われる勇気、そうだよ、好かれるために気を遣って、ぺこぺこしなくてもいいんだよな。」
➡︎
「まぁ嫌われてもいいや」
この発想になってしまい、人に積極的に関わることを止めたため、人間関係がよそよそしくなっちゃった。
典型的に間違った浅はかな理解だったかな…
他に
褒める叱るではなく感謝
相手を無条件で信頼
…
これらも、言葉通り真に受けて実践してみても、相手が自分の想定通りの反応してくれる訳でないので、余計イライラしたり傷つく。
アドラーは勇気の心理学と言われてる。でもこれだけではわからない。
なんか住んでる次元が違うのかなぁ。
意識高い系な人間関係の中では非常に効力を発揮しそうな気がするが、非常に意識低い系の間柄では、痛い目に遭いそうである。
アドラー心理学は正しく理解するのが難しいと言われてる。
人についつい合わせて、行動できないという自分の殻を破れない人にとっては、有益なものであると思う。
でもあまり考えずに鵜呑みにすると、自分の思ってない結果に落胆する。
まぁ興味のある人は気をつけてね〜
無頓着
テレビに横尾忠則さんが出演されていて、自著の本の宣伝兼ねて、本の内容を語っていたのだが、その中で無心より無頓着というワードが出てきた。無心は無理だから無頓着でいると。
無頓着。
全く気にかけないで平気なこと。
別な言い方すると執着心がないこと。
これができれば気になることもなくなる。
悩むこともない。
全ては解決。メデタシメデタシ。
ウーン、これすら難しい…
最近流行りの瞑想。とっくにパクついてるんだけど、無心になるということがいかに難しいかは実感済み。
お香を焚いて、床に座り、半眼になりマントラを唱える(本のとおり)。
「おー、無心でいる。いい感じ。
であいつ、なんでいつも時間遅れてくるんだろう?俺だから?あ、いかんいかん。後で後で。
…
この間食ったあんかけスパ、唐揚げも付いてて、あのボリューム、また食いたいなぁ。あ、いかんいかん(名古屋の男子は大好きです)
…
あの曲のアレンジ、結局どうしような。俺のギター要らないかもな、引き算は大切だよ…あ、」
自分の中で気になる事、それが次から次へと頭をよぎる。ある意味今の悩みの羅列である。口も心も黙ってられない。
前も書いたとおり歌っている時でさえ無心状態はお恥ずかしながらない…
煩悩まるけである。
いま執着していること、煩悩に対して、無頓着でいる。
どうでもいいと思う。
執着のない二人の関係。
大人な付き合い。
あれ?そういう思考になると、ラブソングって書けなくなるぞ。
君が欲しい
ずっと好きだよ
守ってあげたい
君を思うと涙が出る
ありがとう
感謝
さようなら
僕の方を見て
見つめて
俺の話を聞いてくれ
捨てないで
恨みます
…
ラブソングは執着心と嫉妬と妄想の塊である。
ラブソングばかり書いてる人で、本当の幸せを手にしてる人いるのかな?
想いが強いだけに結構山あり谷ありな気が笑
こういう感情をルサンチマンというらしい。
こいつはものすごいパワーを持つ。
そのベクトル次第で幸福にも不幸にもなる。
個ではストーカー、引きこもり、逆ギレ、
集団では何かに対する反対運動、炎上、戦争、差別。
こいつが強すぎると、結局相手を苦しめ、互いに幸せになれないと思う。
できるだけ自分に対して無頓着でいること、そして相手を尊重し思いやること。
自分の想いは口に出さないと相手に伝わらない。でも相手への想いは、口にしなくても伝わる気がする。
自分に無頓着でいることは、これから楽観的に生きていくためのキーワードなのかな。
歌詞忘れ
練習はウソをつかない。確かに本当にそう思う。しかしどんなジャンルの名手でも本番でミスをする。練習通りやるだけなのに。
歌詞なんて、スポーツと一緒でルーチン的なものなので、しっかり練習してれば体が覚えてるものである。
でもやらかしてしまう。練習時にはない何かがふと入ってくるから。
集中力を乱すその何かとは?
あの人聴いてくれてるなぁ
あいつ聴かずにスマホ見てる
あの人エロいなぁ
あれ、次のフレーズどうだっけ?
早くステージ終わらないかな
終わったら何食おう
…
煩悩まるけである。
桑田佳祐がよく歌詞間違えると聞く。
ジョンレノンのCome Togetherのライブ映像をよく聴いてると、歌詞間違いだらけ。
でもお二方堂々と間違っても歌ってる。
内心どうなんだろう。
また自意識過剰による緊張もミス誘引のひとつでしょう。
アマチュアのライブ観てると、「もう緊張しちゃって全然ダメです」と自己弁護する人いるけど、観てる側からすると、そうなの?って感じなんだけどね。ど緊張してることの表現力がすごい人もいるけど笑
緊張は集中力をあげるのに必要だけど、心が囁くネガティヴな語りかけに反応するとダメ。
「みんな見てる、ミスしたらどうしよう…」
煩悩による集中力の低下と自意識過剰な緊張がミスを誘発する。
本来進んでいく曲の時間軸上でつまづいてしまう。
まぁライブはノリなので、誰も歌詞間違えなんて気付いてない。気にしてるのは本人だけである(静かな曲歌ってる人だと、モロバレるんだろうなぁ)。
簡単な歌詞にして間違えリスクを減らすのも手なんだけど、まだ単純に表現できるほど成熟してないしな。
結局誰もが行き着くところは一緒で、練習と場数。
できれば、間違えた時のリカバリ反射神経を鍛える。
もしくは歌詞自動生成能力を磨く。
これはある意味才能かな。テレビで毎回歌詞を勝手に変えてしまう歌手がいるってやってたけど、あれはすごいわ、プロ。
適当な人、憧れる。
そして間違っても緊張してても堂々としてればいい。
自己弁護はダメ。
でも脇汗でバレちゃう笑
フォトグラフ
写真って不思議。
同じiPhoneで同じ構図で撮る写真でさえ、撮る人違うと全然違う。センスが出る。まぁセンスがない人にはその違いすら気付かないようで…
高知桂浜の坂本龍馬像、これをバックに記念撮影をツレに任せたら、龍馬の頭がフレームから切れてる。何を撮ろうとしたのかわからん。
撮るとき何を考えてるか聞いてみたら、何も考えてないって…そうだろうなぁ。
見ててつまらない写真は、まずこの何も考えてないやつ。
あと思いっきり型通りというか教科書通りのやつ。
奇をてらいすぎてる。
意味が深すぎて伝わってこない。
これって歌詞にも言えるよなぁ。
カメラがレンズを通した世界なら、詩は言葉を通した世界。
同じ題材でも、人により全く違う作品になる。
センスってなんだろうか。
印象に残る何か。
ふと気付くような何か。
あっと思わせるような何か。
一言から、大切なことを思い起こさせる。
普段口に出せない普遍的な想い。
感じる違和感…
女性の方がセンスを持ってるように思う。
男はねぇ…
僕ちゃんの世界
あなたと私の世界
想いのゴリ押し。
カッコつけ。
どストレート。
自分もわかっちゃいるけどやめられない。
うーん。
森のクマさん
嘉門達夫も戦々恐々だったろう。
例の「森のクマさん」替え歌問題である。
(本人曰く許可とってからリリースしているとのこと)
俗っぽい普通な人なら、自分の作品が再注目されるわけだし、これを機に平井堅にでもカバーしてもらえたりすれば一攫千金も夢ではないのに。
で、今回この「森のくまさん」の歌詞を改めて見てみたところ、すごくふわっとした僕の目指すところの究極に達している作りで。意味がわかるようなわからないような。
アメリカ民謡であるもともとの原詩については、詳しく書いてあるページがあるので、そこを参照してもらうとわかるんだけど、簡単に言うとくまとバッタリ出会った男が、くまに逃げないのかと言われて逃げる過程を、割と詳細に面白おかしく描写してるのだが、これの日本版は大枠は踏襲しつつ、主人公の性別を女性に変え、ふわっと仕上げてる。
自分は英語の歌詞を日本語に訳しているものによくありがちな、リズム感のない冗長なものは嫌いなので、作詞の際はいかに短く響きのいい言葉を探すことをして、字余りになりそうなときは言葉をカットする伝家の宝刀オッカムの剃刀技法を使う。これにより詩の内容に不思議感が漂うようになる。深読みしてもらえればこちらの勝ち?
日本版の歌詞を見てみると、詳細はほぼカットされている。くまさんに出会って、なぜかお逃げなさいと言われ、後をついてこられ、落し物を指摘され、お礼に一緒に歌う。
映画的にはパニックコメディ?
またある日本のプロデューサーが、歌詞に名詞を置くというのは作詞の高等技能と言っていたが、そこもクリアーしている。突然森の中で白い貝殻のイヤリングである。オシャレ感を出し、色彩的な違和感も演出する。
そう作者は余計なものは削ぎ落とし、一見意味のないものを付け足すといった簡単そうで実は難しいことをやりつつ、ふわっとオシャレに仕上げるカリスマ美容師のようなひとであることは間違いない。みんなから愛されるということは、そういうセンスの持ち主である。
言葉数が多いのはそんなに難しいことではない。捨てることがいかに難しいか。断捨離である。
そして個人的には行間の読めるもしくは出せる男になりたい。