作詞のネタ帳

日常や社会の出来事に対して自分の心に引っかかったことを元に作詞していますが、この心の動きを公開し、また作詞のアイデアとして使う目的で始めました。書いてる歌詞の意味がバレルかも(笑)

素顔のままで

先日、本屋であるタイトルの本に目が止まった。


「もし文豪たちがカップ焼そばの作り方を書いたら」


何だろうと手にとってページをめくると、日本の有名な文豪やエッセイスト達が、もしカップ焼そばの作り方について書くとしたら、こんな感じのことを書くんじゃないかというのをその人になりきってパロディー風にまとめた本だった。こういうものを文体模写と言うらしい。これをわかりやすく言うとモノマネ番組でよくある「もしAさんが〜をしたらこうなる」みたいなもの。少なからず文芸モノは好きなので、好きな作家、例えば太宰治夏目漱石などのページは、彼らの文体がわかってるだけに思わずにニヤっとしてしまう。星野源など最近の人もあり、彼なんかは話の最初に「…は嫌いである」など否定や自分ができないことから入ることが多いので、よく特徴を押さえてるなぁと感心した。
で、こういうジャンルのもので思うのは、知ってる人にはバカ受けするほど面白いものであるけど、知らない人にとっては、何が面白いのか全くわからないというものであるということだ。決して万人受けするものではないニッチな笑いだ。

これと同じような楽しみを、音楽を演奏している人で僕は見ている。そこには意識的な人と無意識的な人がいる。意識的な人とは完全なコピーものとして演奏してる人。無意識的な人とは、オリジナルを演奏しているのだが、ありありと影響を受けたミュージシャンがわかる人。意識的な人も無意識な人も、その敬愛するミュージシャン愛が滲み出ている。知ってるミュージシャンであれば歌い方、格好などで影響が簡単にわかるので、見てて何か微笑ましく、あまりに似かたが絶妙だとやるねって感じでクスッと笑ったりする。

しかし大きなお世話だけど、この無意識的な人は注意が必要だ。意識しないとオリジナリティーがいつまでも出ず、ずっと模写から抜け出せない。終いには先の本のように笑いになってしまう。この大好きな人の影響を無くす、いやほんの少しだけでも少なくする作業が最初は意外と難しいのである。自分の経験上でも何をどう作っても、大好きなミュージシャンぽくなってしまう。オリジナリティーを持つというのは簡単な作業ではない。でも辛くても離れなくてはならない。ホントにその人のことが好きだからこそ離れなくてはならない、大人の恋愛みたいに、違う?笑
バンドは適度に他のメンバーの個性が嫌でも混じるので、オリジナリティーが出やすいけど、個人は好きの幻影から抜け出すの大変だろうなぁ。
参考までに自分がやった脱却するための一つの方法は、客観的に自分と雰囲気の似てるミュージシャン、できればそんなにファンでない人の要素を取り入れることだ。大好きなミュージシャンは自分と正反対的なことが多い。だからこそ憧れるんだけど、そこが痛さの原因にもなる。だってあまりにも自分から遠い存在だから。だからこそ客観的に自分と似てる人で、評価されてる人を真似して一部取り入れてみると新しい道が見えてくる。敷居も低いだろうし、好きな人からの脱却の一助にもなる。

世の中のどんな偉大な芸術家も人の影響を受けてない人なんて一人もいない。誰かの影響を受けた人が、更に自分の個性をプラスして新しいものを作り、フォロワーができ、更にそのフォロワーがまた新しいものを作っていく、そういうことが昔から連綿と続いて今がある。最初は真似して勉強して、どこかでオリジナリティーをプラスする。その自分にしかないオリジナリティーを作ることがある意味使命であり、それがこの人っぽいというやつになる。
最近ロックなんかはクラッシックやジャズなどのように、ジャンルとして完成されてしまったのか勢いがない。でも終わったと思ってしまうと、そこで話が終わってしまうので、新しいオリジナリティーがまた新たな波を作ることを期待しつつ、自分にも期待して。